独楽の回転数

煩悩の少なめでお願いします。

居場所がない

実家にて久しぶりに映画鑑賞。

 

前から見たかった「シン・エヴァンゲリオン劇場版:Q」と「JOKER」をやっと見る事ができた。

 

さすがヒット作だけあって2作とも素晴らしかった。また、見ている人が共感できるシーンも多かったと思う。

 

ややネタバレになるかもしれないが、それぞれの登場人物の考察。

 

エヴァンゲリオンでは、碇ゲンドウの過去が終盤で描かれている。碇ゲンドウといえば特務機関NERVの司令として使徒殲滅の指揮をした。

ゲンドウは幼少期から青年期にかけて、家族や学校にうまく溶け込むことが出来ず、勉強をして知識を吸収することだけが救いになっていた。

人との関わりを避けていたゲンドウを理解してくれる特別な女性が現れる。結婚をして子どもを授かるが、ほどなくして妻はこの世からいなくなってしまう。絶望の淵に立ったゲンドウは再び心の扉を閉ざす。息子であるシンジに対しても心を開く事をやめ、妻を蘇らせるために人類補完計画に参画する。

 

ジョーカーにおいては主人公のアーサー(ジョーカー)が自身の出生の秘密を知ることで精神のバランスが崩れていく。

精神疾患を抱えながら病気の母親との生活。コメディアンになることを夢見てピエロの仕事を細々と続ける。信じていた母親にも精神疾患があり自分の出生に嘘があることを知るとアーサーはジョーカーになっていった。

 

ゲンドウとアーサーの共通点は周囲に強調できず、裏切りや大切な人を失うことで悪い方向に振り切ってしまったこと。

全く褒められるようなことではないのに何故か彼らに共感を覚えてしまう。

 

昨今、ネットやメディアの発展に伴い、今まで見えなかったものがあらわになって、ちょっと変だなと思われてきたものに名前がついた。

LGBTADHD家庭内暴力、公務員の性犯罪なんかが最近あらわになった代表格だろう。

それでも、原因も解決方法も分からず助けを求めることもできない人が世の中にたくさんいる。

そんな人たちがゲンドウやジョーカーに共感するのも納得できた。

もし、方向さえ間違えなければ、自分も今の苦境を打開できるかしれないという妙な希望を2人から感じた。

 

私もこの泥沼から這い出たい。方向は間違えないように。

夢も見れないのか

そんなんじゃ夢は見れないぞ。

 

と上司から言われたことがある。「そんな仕事ぶりでは出世は望めないぞ」という意味だ。

 

私がどんな夢を見てるか上司のあなたが何故わかるのかと言いたかったが、そんな度胸はなかった。

 

人間の可能性は無限。impossible is nothingだ。

そう思うようにした。

 

小学生の将来なりたい職業ランキングでは1位と2位がスポーツ選手、3位にyoutuber。4位が会社員。将来会社員になりたいというのは、憧れの職業じゃなくて食いっぱぐれたくないという社会通念ではないのか。

 

昨日NHKウガンダのドキュメンタリーを見ていたら、裸足でバナナを育てて生計を立てている家の少年がパイロットになって贅沢な暮らしがしたいと言っていた。誰も笑う人はいない。誰に何を言われてもやりたい事はやりたいんだ。

 

私もそうありたい。大人なって純粋な夢や憧れが妥当性とか同調圧力の地層に埋もれていく。

一度埋もれたものを掘り返す為に自己啓発本を読んだり、誰かの体験談を聞いてみるけど、それは元々持っていたのもの。素直に心見つめるだけでよかったのかもしれない。

 

そして私たちはウガンダよりはるかに恵まれた環境に生きている。住民税もガスの基本料金も高いけれど、食い物に困ることはない。

難関資格がないとつけない職業は勉強を経済的な部分を両立する必要があるだろうが、それだってクラウドファウンディングで地域からお金を集める事だってできるかもしれない。

 

夢が見れないのは社会保障がないからじゃない。世帯年収が低い家に生まれたからでもない。何だってやってみよう。人生は短い。

 

 

 

花火がどーん

引越した。

 

本格的に家族と別居。久しぶりの車以外の寝食は体力とメンタルの回復にかなり効果的だった。

 

家具家電付きの物件でIHヒーターの火力が弱い以外は何の不満もない。

歩いていける距離にスーパーとコンビニとドラッグストアがある。

 

新生活のワクワク感はないけど、牢屋に入ったような閉塞感やひもじい感じはない。

 

荷物(といっても車のハッチバックに詰めるくらい)を収納し、メモ紙に今後の抱負を書いて部屋に貼りまくった。もちろんゴミの収集日などの情報も。

 

その後はひたすらテレビを見た。特に面白くはないが惰性で見続けた。

 

本を開いたり書き物をしてみようかと机に向かってみるも指は動かず。

昔からそうなのが、家で仕事や勉強ができない。大抵はカフェか図書館へ行く。

 

話が逸れた。

ドラッグストアでトイレットペーパーやタッパーを買ってドアを開けると破裂音が聞こえた。

 

二階建てのアパートの上空に花火が上がる。

向かいの家の親子が感嘆の声をあげてそれを見ている。私も感動した。

11月の花火。何か祝福されたような気になる。

 

新しい暮らしと新しい戦いのゴングが派手に鳴らされた。

 

 

そうだ、ギャツビーになろう

先般のブログで初恋について熱く書いてしまった。

 

結果して、オチも微妙だし、ただの一人芝居のようなものだったけど、これまで人に話したことがなかったので良い棚卸しになったと思っている。

 

そして、私はいつか初恋の人に会いに行こうと思った。彼女に見合う男にアップデートしてから。

 

「グレートギャツビー」でジェイ・ギャツビーはかつての恋人デイジーを5年待ち続けた。

 

私が今の状況から、彼女に見合う男になるまでおそらく5年くらいかかるだろう。仕事を爆裂にこなし、知識と接遇を身につけて、さりげなく高級な靴を履いて彼女の前に現れるのだ。

 

彼女は仕事で結果を残しているし、どこにでもいる姓名ではないからGoogle検索すればヒットする。でも私の名前を検索しても何も出て来ない。というか、私が出て来ない。

私と同姓同名の方は目立ちたがりが多いのか、美容師だの社長だの役者だのがわんさかヒットする。しかもちょっと雰囲気が似ていて私っぽくも見える。

もし彼女が何かの気の迷いで私の事を調べてたとしても見つけることはできない。

ギャツビー的な発想ではあるけども、自分の名前をGoogle検索して上の方に出てくるくらいまでになりたい。youtuberでなくてもタレントでなくてもいい。彼女が私を検索して見つけられる場所にいたい。

 

具体的な目標設定じゃなくてもいい。彼女に胸を張って会いにいくためだけに、自分を成長させよう。

 

彼女の傍らにいる男は、知識と教養があり、明るさとユーモアがあり、スーツを着こなし、相手をエスコートすることを忘れないナイスガイだ。それは5年後の私だ。

 

ダニエル・クレイグが007のジェームズ・ボンド役になったのが35歳だという。

 

男子が男へと孵化する期間はこれからなのだ。

 

(続)好きな女の子の話

女神が下界から去った世界で私は平穏に過ごした。

 

女神様の髪の毛すら残されてはいなかったが、失恋のショックでご飯も喉を通らないとはならなかった。中学では部活を頑張ったし、高校はほぼ男子校で進学コースだったので恋愛にがっつく暇はなかった。

 

進路を決める頃になると東京へ行くルートがチラついた。もしかしたら偶然に彼女と再会出来るかも知れないと。

 

待て待て。映画の見過ぎだ。よしんば再会できたとして、数年ぶりに現れた芋っ子を相手にしてくれるはずがない。もしかしたら彼女にとっては田舎で過ごした数年間がキャリアの汚点となっている可能性だってある。

 

ということで女神様の後を追うのはやめて、自分の人生を生きていこうと歩みを進めたのだった。

 

大学、社会人といろんな人と出会ったり付き合ったりした。みんな魅力的だったと思う。

だけど、どこかで彼女のゴーストと比べてしまう。お付き合いした女性には大変申し訳のだが、彼女のゴーストが強すぎて夢中になれないのだ。

 

向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。

 

時は流れて私が30歳くらいの時。その頃になるとスマホSNSが復旧して個人情報などすぐ手に入る時代。会社の同僚と音楽か何かの話になって、ふと彼女のことを思い出した。

 

Safariに彼女の名前を打ち込む。

検索結果がいくつも出てくる。ニュースや肩書きだけでは彼女かどうか判別できない。

画像検索。

 

いた。

 

彼女の顔が手元のスマホに映っている。見た目は全く変わっていない。何か賞状みたいなものを持って笑っている。何歳の時の画像はわからないが成人はしているんだろう。

彼女と思しき画像は他にもあった。肩が出ているドレスを着てグランドピアノに向かっている。

画像の出典元のサイトを確認。彼女は大学の講師をしながらピアニストとして活躍していた。

有名な大学ではなかったが、大学の名前に見覚えがあった。当時私が担当していた埼玉県某市にキャンパスがある大学。

 

駅前ですれ違っていた可能性はゼロではない。電車で同じ車両に乗っていたかもしれない。

 

しかし、もしすれ違っていても私なら必ず気づくはずだ。一度会った人の顔が分からなかったのは成人式で派手にリフォームした地元の友達だけだ。

 

だからと言って、何か進捗させる気はなかった。彼女は変わらず美しいことが分かったし、結婚しているかもしれない。何より私が忙しすぎた。

 

いつの間にか女神様と同じ空気を吸える場所に自分がいた事がうれしかった。背広を来た芋っ子は転がって天界のラウンジまで来れた。

 

アニヲタなんかより私の方が不健康で気持ち悪いなと思いつつも、素敵なことを懐古できてよかった。

 

現場からは以上です。

 

 

 

好きな女の子の話

私が好きな女の子の話。

 

2日前の夜、ふと小学生の時に好きだった女の子のことを思い出した。

 

初恋の女の子は2年生の時に東京から転校してきた。

目鼻立ちがはっきりしていて、綺麗な標準語を話し、合唱でピアノの伴奏をし、円周率を100桁くらい暗記していた。

運動神経もあって、逆上がりも二重跳びも出来たし、彼女よりも美しい平泳ぎのフォームは未だ見たことがない。

まさに才色兼備。スペックが高すぎて、ただただ崇め奉るしかなかった。芋畑に舞い降りた女神。

 

彼女に好意を抱いている男子がどのくらいいるのか定かではなかったが、私は完全に夢中だった。家でテレビや映画を見るのが日課になっている私は生で聞く美しい標準語と東京から来たハイスペック転校生というドラマティックな展開に静かに狂喜乱舞していた。

 

しかし、田舎の小学生が都会の女の子を口説き落とす術など持っていない。

それ以前に、小学生の男子には恋愛そのものがポピュラーな話題ではなかった。ミニ四駆と野球とサッカーとドラゴンボールが男子の生活の基盤だった。

 

そんなわけで、友達にももちろん親にも相談するわけにもいかず、随分と背伸びをして彼女とお近づきになろうとしたのを覚えている。

彼女が使っているボールペンや鉛筆を真似して買った。全く興味のない学級委員にも立候補した。水泳で平泳ぎだけがんばった。SMAPのアルバムを聴きまくった。 

 

まるで大黒摩季の歌詞に出てくるような純情女子さながらの行動力と健気さではないか。

 

地味なキャンペーン活動の甲斐あってか、いろんな援護射撃がをもらえることがあった。

 

まず、母親同士が割と話す仲になったこと。うちの母がピアノを教えていることもあって、共通の話題があったのだろう。私は彼女とお近づきになりたいが為にピアノを習いたい衝動に駆られたが、それはさすがにやり過ぎだろうと思い止まった。

 

2つ上の学年に彼女のお兄さんがいたのだが、彼女と同じくハイスペック。イケメンで育ちの良さが一目で分かった。それでいて、周りの芋っ子たちを見下すようなこともなく、仲間を元気にするダイナモ的な存在になっていた。

お兄さんの友達というのが、私の幼稚園からの先輩数名だった。とにかく面倒見がよい先輩で兄弟同然の兄貴たち。必然的に彼女のお兄さんとも普通に話せる仲になった。

兄貴ぃぃぃいいいいい!!(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

 

全校生徒のうち彼女に好意を抱いていた芋がどれほどいたか定かではないが、親兄弟からボールペンに至るまでしっかり周りを固めたのは私1人であったと自負している。

 

その後にちゃんとドラマは待っていた。

小学校5年生の時に彼女は東京へ戻った。

その当時のことがよく思い出せない。いつ誰からその事を聞いたのかも、どんな思いだったかも。

最後にクラスメイトたちと駅まで見送りに行くことになったが、何を話したか覚えていない。結局、恋心を伝えることもなく女神は下界から去った。

 

彼女が去り、私は小学校6年生。月9ドラマや「あいのり」やタイタニックを理解できる歳になった。

 

私とも彼女とも仲の良かった友達の家で木村拓哉主演のラブジェネレーションのビデオを見てた。

 

友達が彼女のことを話している。私がどういう状況だと思ったのか、「あの子は東京でもうまくやってけるよ。むしろ東京から来たんだから向こうの方があってるよね。私たちとは違うんだよ。」と慰めにもならないことを言われて反論する気も起きなかった。

 

私はいつの日か東京に行こうと思った。

 

 

現場からは以上です。

 

 

 

 

 

 

何をされてる方

久しぶりに街に行ってみた。

 

仙台というところは他の地方都市同様に市の中央部にいろんな機能が集約されている。

 

歓楽街とお買い物エリアが隣接している上に、大学や専門学校が多いので学生が多い。百貨店に行く年配のご夫妻もたくさんいる。つまり銀座と渋谷とススキノが一緒になって小さくなった感じだ。実につまらなくて平和で可愛げのある街だ。

 

学生時代の知り合いとすれ違うことはほとんどないし、声をかけることもかけられることもない。寂しいもんだ。

 

自分が容姿へのこだわりを捨てている状態だからそう見えるのだろうけど、街を歩く人は若者も年配の方も色彩感覚のセンスが良くておしゃれに見える。

 

カルティエやスワロフスキーやオメガの路面店で買い物をしてる人たちは何をされている方なのだろうかと観察してみるが分からない。金を持っているのは確かなんだろうけど。

 

明らかに生命力がみなぎっている人やオーラを放つ人はいないけれど、何やらあくの強い個性を持ってる人はいるみたいだった。

 

いろんな人と話をしたいと思っても、人々は目的の場所へ向かって歩いていく。私はそれを見て歩く。

 

モンクレールの路面店から40-50代と思しき男性が大きなモンクレールの紙袋を抱えて出てきた。袋の中身はおそらく私の家賃より高額であろうダウンジャケットが入っているのだろう。

傍らには娘か彼女か判断が難しい女性がいる。意気揚々とモンクレールを出た2人は隣のロレックスの店舗へと立ち止まることなく入っていった。

「シャンプーなくなるから隣のドラッグストアも寄らない?」くらいのフットワークだった。

 

嫉妬も羨む気持ちはないけど、何をされてる方なのかすごく聞いてみたい。

 

街でやることもないので、ドトールジョーカーゲームの続きを読もうか。

 

現場からは以上です。